今から150年ほど前の江戸時代の話…。
まだこの国の男性は
ちょんまげ頭で、腰には刀
という恰好で生活していました
そして黒船の来航により、欧米諸国との軍事力の差を目の当たりにした若者たちは【討幕】を決意し、立ち上がりました
数えきれない若き命が失われた幕末において、新時代【明治】の中心を担った人物の一人が誰もが知ってる
『西郷どん』
しかし、彼には秘密があったんです…。
教科書に載っている【西郷どん】は
名前は『西郷隆盛(たかもり)』
薩摩藩(現・鹿児島県)の下級武士の生まれだったが、当時の藩主である島津斉彬(なりあきら)に見いだされ藩政の中心を担った人物
京都に拠点を移すと頭角を現し『禁門の変』では、会津藩と共闘し長州藩を失脚させることに成功
しかしその後、土佐藩士である坂本龍馬の仲介で敵であった長州藩と『薩長同盟』を結び時代は討幕へと向かった
戊辰戦争では、次々と旧幕府軍を撃破し江戸城で幕臣の勝海舟と会談し『無血開城』を実現させ、江戸の町が戦火に包まれることは無かった
それらの功績から、明治に入ると大久保利通・木戸孝允らと共に【維新3傑】と称されるが『征韓論』を受け入れられず辞職し鹿児島へ戻る
新政府に不満を持つ元士族たちに担ぎ上げられ、国内最大の内乱となった【西南戦争】の指導者となり政府と戦い敗北
最後は城山の決戦で敗北を悟り、キリシタンであった西郷は自害が出来なかったため側近である別府晋介に首を刎ねてもらった
最後の言葉は
「晋どん、もうここでよか」
名前が違う
本名は隆永(たかなが)であり、一般的に浸透している隆盛という名前は
じつは父親の名前なんです!
何故こんな事になったのか?
実は【王政復古の章典】で位階を授けられる際、親友であった吉井友美という人物が間違えて父の名前を届けてしまったんだとか…。
間違える親友もどうかと思うのですが、間違われた西郷も訂正せず隆盛に改名してしまったそうです
実はコレだけではなく、西郷どんは何度も名前を変えているんですよね
西郷どんが名乗った名前
1・菊池源吾(きくちげんご)
井伊直弼が行った安政の大獄により尊攘派の志士たちは捕縛されて行く中、同志を守り切れなかった西郷どんは鹿児島湾に身を投げましたが一命はとりとめます
この時、薩摩藩は幕府の目から逃すために奄美大島へ遠島させ、この名を名乗らせました
2・大島三右衛門(おおしまさんえもん)
その後、鹿児島に召還され藩の職務に戻りますが幕府に生存がバレないように名乗ったのが、この名前
この時点で、自分を可愛がってくれた斉彬は没しており藩政は後継者である『島津久光(ひさみつ)』が握っていました
3・大島吉之助(おおしまきちのすけ)
後継者である久光とは、ウマが合わなかったのか西郷は命令違反を繰り返し京都の町で捕縛されてしまいます
そして、そのまま薩摩に送り返されると財産を全て没収、さらに沖永良部島へと流されてこの名前に変えられました
結局、西郷の姓を取り戻すのは【禁門の変】で活躍しだした頃
しかし名を取り戻すことは無かったんですねぇ…。
顔が違う
大河ドラマの主役に選ばれたり、肖像画や上野公園にある犬を連れた銅像から何となく
優しくて心の広い人物
ってイメージを持っている方は多いのではないでしょうか?
学生時代に『西郷どん』って、あだ名の奴とかいましたよね
肖像画の秘密
江戸の末期には【写真】の技術はありました
現に坂本龍馬や近藤勇など、幕末のヒーローたちの写真というものは多数残されています
しかし、西郷どんの写真は一枚も残っていない
それどころか、面と向かって肖像画すら書かせることは無かったんです!
では、あの肖像画の正体は??
有名な西郷どんの肖像画を描いたのはイタリアの版画家・画家の『エドアルド・キヨッソーネ』という人物で、有名なのは【明治天皇】の肖像画を描いた人物です
しかし、キヨッソーネは依頼された西郷どんの写真が無いため考えました
そして出したアイデアは
顔の上半分は、弟の従道(つぐみち)
顔の下半分は、いとこの大山巌(おおやまいわお)
つまりモンタージュって事で本人のとは断定できないんです!!
銅像のエピソード
そんなモンタージュ肖像画をもとに作られたのが上野公園の銅像で、いまでは東京のシンボルにもなっているほど
建てられたのは1898年(明治31年)
そして除幕式に招待された、妻である糸子(いとこ)は
「うちの人に似ていない!」
と何度もつぶやき、まわりを困惑させたそうです
そして同じような証言をした人物が、新選組2番隊組長【永倉新八(ながくらしんぱち)】
西郷とは『禁門の変』で、共に長州藩と戦った事があったので面識がありました
大正時代まで生きた永倉も上野の西郷像を見に行った時、こう言ったそうです
「本人とは似ても似つかない!」
ちなみに、この2名は明治政府には恨みがある人物(糸子は西南戦争で夫を失い、永倉は旧幕府軍)
もう一人の証言者である、銅像の建設に関わった樺山資紀(かばやまのりすけ)の息子である、愛輔(あいすけ)の談は
「目や顔、肩の線は再現できたが唇は難しかった」
雰囲気は伝わっているのかもしれませんね
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